阪急500形電車, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=697296 / CC BY SA 3.0
#阪急電鉄の電車
#1938年製の鉄道車両
#川崎重工業製の電車
阪急500形電車
阪急500形電車(はんきゅう500がたでんしゃ)は、かつて阪神急行電鉄及び京阪神急行電鉄(ともに現在の阪急電鉄)に在籍した小型の通勤形電車である。先に宝塚線に登場した380形の増備車及び同線の輸送力増強用として1938年から1943年にかけて31両が製造された。
阪急宝塚線は、沿線の宅地化が進んだ事から、1926年には51形を使用して3両編成での運転を開始、1941年5月からは池田駅折り返し列車の4両編成化を行い、同時に、320形や380形といった新車の投入や神戸線 から300形を転属させることも行うなど、宝塚線の車両が小型車であることから輸送力増強には増結と増発で対応していた。また、この時期には阪急創業時からの1形も半数近くが宝塚線に残存していたが、51形以降の各形式に比べるとやや小型かつ非力で輸送力確保には難があったことから、今津線などの支線運用への転出が検討されていた。こうした背景をもとに、本形式が製造されることとなった。
本形式は1938年4月に1次車として500~511の12両が、1940年12月に2次車として512~521の10両が、1943年3月に3次車として522~530の9両が川崎車輌で製造された。基本的なデザインは1936年に製造された380形を継承しているが、この時期神戸線向けに増備が続けられていた920系同様、広幅貫通路を持つ片運転台車として製造された。広幅貫通路も片運転台車のいずれも宝塚線初の採用であったが、Mc-Tcの2両編成を基本編成とした920系とは異なり、当時の宝塚線の橋梁の荷重負担力の関係で1両にモーター2基を搭載したMc-Mcの2両編成を組んでいた。このため、通常は2連を組むが、1両でも運転可能である。さらに、神戸線及びその支線で使用する場合を考慮して、客室扉には引き出し式のステップを用意していた。また、それまで製造された車両では、社紋が車体中央部に設けられた唐草模様をあしらった菱枠の上に取り付けられていたが、本形式からはこの菱枠が省略されたうえに社紋の取り付け位置が車端部に変更された。
本形式の製造された時期は、同時期に製造された920系をはじめ、鉄道省及び他社の車両同様、戦前の鉄道車両の製造技術が頂点に達した時期から日中戦争の長期化と太平洋戦争開戦に伴って戦時体制が強化された時期に重なっており、製造時期によって細部に差異が見受けられた。項目ごとの概要については以下のとおり。
車体は前述のとおり380形及び920系をベースとした軽量構造の全鋼製車体であり、車体長は約15m、側面窓配置はd1(1)D6D(1)2(d:乗務員扉、D:客用扉、(1):戸袋窓)の片運転台車で、スマートな平帯のウインドシルに電気溶接を多用したリベットレスの車体、前面は320形同様中央に貫通扉を配した3枚窓で、運転台側幕板部に行先方向幕、助士台側幕板部に尾灯を配し、妻面には広幅貫通路を設けた。車体幅は380形同様約2.4mで、車体重量も380形と同じ20.4tである。屋根には385で試用され、920系3次車以降で本格的に採用された押込形ベンチレータとなり、ランボードの両側に4基取り付けられた。座席は380形同様、パイプ式の袖仕切となったロングシートである。ただ、3次車のみは太平洋戦争開始後の1942年に製造が認可されたことから、資材節約のために屋根が木製となって全体に絶縁及び防水用のキャンバスが張られ、屋根そのものが浅くなったことでその分幕板が広くなったために、1,2次車に比べると雰囲気が異なってしまった。また、1次車では全ての側窓下部に取り付けられていた保護棒が、2次車以降は戸袋窓下部のみの取付に変更されたことから、1次車では側窓が全開できたものが、2・3次車では途中で降下が止まるように変更された。
台車及び電装品であるが、台車は380形同様住友金属工業製の鋳鋼台車を採用し、1次車のみ軸受にスウェーデンSKF社製のローラーベアリングを採用したH-63,64を履いたが、2次車以降は高品質のローラーベアリングの使用が困難になったことから、軸受をプレーンベアリングとしたH-5及びH-5-イを履いた 。主電動機は、1次車では新造品の芝浦製作所製SE-121Eを搭載したが、2次車では300形304・305の宝塚線転入時におけるモーター半減分と306~309のモーターの換装によって捻出されたゼネラル・エレクトリック社製GE-240Aを搭載、3次車では物資不足の折から手持ち...