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阪急電鉄の創業者「小林一三」

小林一三が、鉄道の開業と共に展開した様々な事業は、私鉄経営のビジネスモデルの創造として語られることが多いですが、目指したのは、便利で環境の良い住宅に暮らし、デパートで買い物をしたり、観劇を楽しんだり、ゆとりある生活をする、現代に繋がる理想のライフスタイルの創造でした。

のちに「宝塚歌劇」を作り出し、自ら脚本を書くことにもなる小林一三は若い頃から文学青年でした。慶応義塾で勉学に勤しむ傍ら、塾寮の機関誌の主筆を務めたり、ある事件を題材にした小説「練絲痕(れんしこん)」を書き、郷里の新聞に連載されるなどして活躍していました。また、寄宿舎に近い麻布に芝居町があったことから、芝居に興味を持ちはじめたのも学生時代だったと言います。

卒業後は、文学青年としての実力を活かせる「新聞社」への入社を目指したのですが、いろいろなタイミングが合わず、けっきょく、銀行勤めのサラリーマンとなるのでした。すぐに実業家の道を歩んだわけではなかった一三。しかし、文学青年としての経験・実力が、その後、宝塚歌劇だけでなく、様々な会社経営における一三らしいアイデアに結びついていったのでした。

岩下清周(いわした きよちか)の誘いでサラリーマンを辞め、経済恐慌による紆余曲折があったものの、新しい鉄道会社「箕面有馬電気軌道」(現在の阪急電鉄)の「生みの親」役を託された小林一三。
しかし、阪神電車などのようにすでに発展している都市間を結ぶ鉄道と違って、梅田から農村地帯を経由して紅葉(箕面)や温泉(有馬)の観光名所を結ぶ路線ということで、「遊覧電車では利用者が少ないのではないか?」など、誰もが鉄道開業に対して消極的でした。

そんな周りの考えを覆すアイデアを思いついたのは、一三が池田と梅田の間の予定線を実際に歩いたとき。牧歌的な風景を見ながら、「こんな良いところに、どうして大阪の人間は住みたがらないのか?」と、当時、人口増加が著しかった大阪市内の狭い住居の暮らしと比べ合わせ、「郊外に住宅地を新たに作り、その居住者を市内へ電車で運ぶ」という、その後の私鉄経営の基礎となる考えに至ったのです。
さらに、出資者に事業を売り込むために、事業展開を説明するパンフレット「最も有望なる電車」を作ったのは、文学青年の一三らしいアイデアで、当時としては珍しかったそうです。

鉄道の建設と同時に進められた沿線の宅地開発。しかし、明治時代の頃はサラリーマンなどが住宅を購入するための住宅ローンの制度が無く、小林一三も銀行員時代は社宅や借家住まいでした。
そんな、持ち家が資産家など一部の層に限られていた時代に、「頭金として売値の2割、残りを10年間月賦で払い込むと住宅の所有権を移転させる」という、土地・住宅を担保とした現在の住宅ローンの走りとも言える住宅販売方法を提案して、サラリーマン層などの多くの人たちが、マイホームを持って豊かに暮らす機会を作り上げたのでした。

また、新しい住宅地に用意する家屋にもこだわり、土地の豊かな郊外らしく、長屋ではなく100坪もの広い区画の一戸建て。さらに郊外では石油ランプでの生活も珍しくなかった時代に電灯の設備も用意し、場所・家屋ともに豊かな暮らしを提案したのでした。
この方法は見事に功を奏し、初回の池田室町住宅は売り出してほどなく完売。続いて、桜井・豊中などにも理想の沿線住宅地を増やし、鉄道の利用者も増やしていったのでした。

宝塚歌劇は今や日本のみならず海外にもファンの多いエンタテインメントとなり、2014年(平成26年)には100周年も迎えました。何世代にもわたって愛される宝塚歌劇の誕生のきっかけは、意外にも他の事業の失敗からでした。

一三は、行楽客による鉄道の利用者増を狙って、宝塚に「宝塚新温泉」というレジャー施設を開設します。その中に屋内プールを開設したのですが、「屋内プールの水は温水にしないといけないことを知らなかった」「時代的に男女一緒には入れない・見学できない」という要因が重なり、事業としてはすぐに失敗となってしまいます。

無用の長物となってしまったプールを眺めながら、思いついた次の一手は「芝居小屋」としての再利用。プールの浴槽と見物席を客席に、脱衣所のあった場所を舞台に仕立て上げたのです。さらに、舞台でお客様を引き付ける最適な出し物を考え、世間で話題になっていた少年音楽隊にヒントを得て、「少女だともっと可愛い公演になるのでは?」とひらめいた瞬間が、宝塚歌劇の誕生の瞬間だったのかもしれません。

それでも1914年(大正3年)4月の初演時には、「宝塚少女歌劇」の舞台公演のみでは集客力は弱いと考えていた一三でしたが、初日の様子が新聞で好意的に紹介され、世間に広く知られることになり、初演は毎日“大入満員”という好調なスタートを切ったのでした。
その後も一三や制作・指導に携わる人たち、そして少女たちの熱い思いで興行は成長。「この楽しい演劇を一人でも多くの人に観てもらいたい」と思った一三は、宝塚に4,000人を収容する(旧)宝塚大劇場を完成させ、さらに東京、海外へと進出していくのでした。

神戸本線が開業し、大きなターミナル駅となった梅田駅(現在の大阪梅田駅)。毎日12~13万人のお客様が利用するその場所に百貨店を開業してはどうか?という構想を小林一三は抱き始めました。

当時の百貨店と言えば、呉服屋発祥のものが多く、またその場所も駅から離れた場所にあり、車による無料送迎サービスなどでお客様を迎え入れていました。それなら「駅に百貨店があれば、送迎の必要もなく、もっと気軽に使ってもらえるのでは?」と考えた一三ですが、駅直結の百貨店も、鉄道会社が百貨店を運営することも、日本はおろか世界に前例が無く、さらには、一三自身に百貨店経営の経験がありませんでした。そこで、東京で百貨店を経営し、関西への進出を進めていた「白木屋」との思惑・タイミングが合致したことから、当時の梅田駅ビルの1階を貸して、日用品や雑貨の販売をしてもらい、需要動向を観察すると共に、経営形態の実地を学ぶことにしました。

「白木屋」の出店は成功を収め、契約満了の機会に合わせ、いよいよ阪急直営の百貨店「阪急マーケット」として展開するのですが、そこで一三が目指したのは「よい品を安く売る」。しかし、何でもかんでも薄利多売をしたのでは、周辺の小売店の経営へ大きな影響が出てしまうことも考慮し、百貨店が価格面で競争する場合は「自分の手で、自分の工夫で、自分の設備で製造した商品に限るべき」という方針を持って百貨店経営を進めていったのでした。

その後、1929年(昭和4年)に地上8階・地下2階という巨大な(旧)梅田阪急ビルを建設。「阪急百貨店」の名を冠し、現代の歴史へと繋がっていったのでした。

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