阪急96形電車, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=716489 / CC BY SA 3.0
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阪急96形電車
阪急96形電車(はんきゅう96がたでんしゃ)は、阪急電鉄の前身である阪神急行電鉄及び京阪神急行電鉄に在籍した通勤型電車で、 今津線の輸送力増強用として、1929年製の加越鉄道の客車を1940年に譲受の上、改造で電車化したものである。
1937年に勃発した日中戦争の戦火は中国大陸に広く拡大し、日本は国力の大半を戦争遂行に費やす総力戦に突入していた。国家総動員法(1938年成立)など戦時経済統制に関する法律施行により、石油・石炭等の燃料のみならず、鉄鋼や軽金属などの民需も制限され、軍需物資増産に転用された。
一方、軍需工場への通勤者が増加したことから、省線電車や都市近郊私鉄では輸送力増強のため新車導入を図ったが、鉄道車両の新規製造は統制物資を多量に消費することから、鉄道省も製造認可を容易に出さなくなっていた。
これは阪急においても例外ではなかった。1930年代から、阪急今津線沿線では現在の阪神競馬場の敷地に川西航空機宝塚工場が建設されるなど、軍需工場が多数立地していた。当時の今津線では、従来からの主力であった90形や1形が単行から2両編成で運行されていたが日中戦争の長期化と日独伊三国軍事同盟締結に伴う対米英関係の悪化に伴い、軍需物資の更なる増産が求められ、工場通勤者対策の輸送力増強は急務となった。
しかし当時は、前述のとおり物資不足と経済統制の強化によって、大手私鉄の阪急といえども車両増備が容易でなかった。1939年に神戸線向けの920系8両、1940年には宝塚線向けに500形10両、1941年には再び神戸線向けに920系10両と、本線向けに限られた車両増備が許されただけで、今津線など支線向け車両の新造は困難な情勢であった。
そこで異例の措置として、地方私鉄の余剰車両を譲り受けて支線車両の不足を満たすことになった。調査の結果、当時、富山県の加越鉄道(のち富山地方鉄道を経て加越能鉄道加越線)で、1931年以降の気動車の大量導入に伴い、余剰車となっていた中型半鋼製客車ナハフ101・102が俎上に上がり、該当車2両は小島栄次郎工業所を通じて阪急に購入された。
本形式の種車となった加越鉄道ナハフ101・102は、前述のとおり1929年に日本車輌製造において製造された半鋼製ボギー客車である。
鉄道省が当時増備していたオハ31形に範をとった構造で、車体長約17m、車体幅約2.75m、側面窓配置はD33333D(D:客用扉)、妻面には貫通扉のほかハンドブレーキが突出して取り付けられており、その上にカバーが飛び出していた。台車は当時の鉄道省標準型台車であったイコライザー式のTR10系である。屋根はオハ31形とは異なり丸屋根で、中央にはガーランド型ベンチレーターが7基取り付けられていた。溶接技術が進歩したことから、リベットもウインドシル・ヘッダーや車体裾部、扉周囲での使用にとどめられている。内装は車端部の窓3枚分ずつがロングシート、中央部の窓9枚分がクロスシートで、固定式の背ずりの低いクロスシートが6組配置されていた。客用扉は内開きで、降雪地帯を走ることからデッキと客室の間には中央に引戸を置いた仕切が設けられていた。
同車はオハ31形に準拠しながら丸屋根の採用やリベットレス化を図るなど新機軸も採り入れており、後年にナハ22000系事故車の復旧工事で登場したオハ30形によく似た形態の車両である。当時の地方私鉄の多くが鉄道省払い下げの木造客車を主に使用していたことに鑑みると、省線最新鋭形式に準拠した客車の新造は異例かつ意欲的な事例であった。
ところが同じ時期に日本ではローカル線の小単位輸送に適した内燃動車の技術開発が著しく発達し、取引先の日本車輌製造が大型ガソリンカーを開発するようになったことで、加越鉄道も1931年に同社初のガソリンカーであるキハ1~3を日本車輌で新造、好成績を収める。そして翌1932年には、日本国内向けのディーゼルカーとしては黎明期の事例に属するキハ11を増備するという挑戦に及んだ。この時点で旅客輸送の大半は気動車化され、 1934年には開業以来使用していた2軸客車の使用をやめ、客車はナハフ101・102の2両だけとなってしまった。
その後、キハ11の成績が良好であったことから、加越鉄道は旅客輸送を実質的に完全気動車化することになった。1937年に日立製作所製100PSディーゼル機関搭載で、当時の国内向けディーゼルカーでは最大級のキハ12・13を増備したので...